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シン・エヴァンゲリオン劇場版視聴後感想:終わらなければならなかったエヴァ、あるいは成熟と劇画オバQ

シン・エヴァを見た。

自分はエヴァTVシリーズが公開された翌年の1996年に生まれた、所謂Z世代の端くれなのでエヴァ視聴者としてはおそらく最も若い部類に入る。
中学時代に友達の家にあった貞本版エヴァを読み、そこからTVシリーズ、旧劇、新劇と履修していった。劇場で見た体験としてはQがはじめてだった。

アニメシリーズも旧劇も新劇も、繰り返し見た作品の方が少ないのでエヴァ自体にさほど思い入れがあるかと言われるとそういうわけではないかもしれないが、lainガンダムイデオンと進んだ自分のアニメ趣味の端緒となる程度には大きな存在ではあった。(エヴァから遡及的にカルト的なアニメを消費していくのは自分のようなZ世代周辺の人間にとっておそらく割と一般的な様式であるように思う)

 

映画を見た直後の率直な感想としては、あれだけナイーブな視聴者のアイデンティティを投射されてカルト的なものとして消費されてきたエヴァが、こんなに現代的な文脈で解釈できる茶番的な展開で終わってしまっていいのか?という不安だったが、それでも「いや、それでいいんだよな」、と思わされる強い説得力が同時にあった。

人類補完計画で自己と他者との境界を無くして争いや悩みのない世界を実現するという相変わらずの加速主義的な企みに対し、世界からの疎外なく汗を流す仕事を通じてコミュニティの発展に貢献していく多少理想主義的な第三村が対置される。縁を大事に、とケンスケや村の人々が言う。大人になれ、とアスカが言う。 その第三村で人に相対する自我を取り戻し「大人」になったシンジが再びエヴァに乗って父ゲンドウと対話し、アスカやカヲルと互いの体験の清算を行い、リアルに成長した大人として長い過去に決別する。
過去作と比べてこれらの展開の意義は驚くほど丁寧に、解釈の余地なく説明されながら進む。
あまりに現代的にリアルな価値観が主張される過程ははっきりいって陳腐で茶番だが、それでもまあ、それでいいんだよな、と思うしかない卒業のイニシエーション。

 

映画を見ていて真っ先に連想した漫画がある。藤子F不二夫先生のSF短編「劇画・オバQ」だ。 漫画のプロット要約を以下に記す。

本編から時を経て成長し、リアルな世界のサラリーマンとして社会の歯車となって働く正太は15年ぶりにオバQとかつての仲間と再開する。
かつて色々なユメを持ち、ユメに向かって無鉄砲に突っ走っていた自分たちを振り返り、ユメを失った現在を嘆く。
そんな中、仲間のうちのハカセはひとり社会に自分を曲げずにかつてのユメを追い続け、「なぜユメを消さなきゃいけないんだよ!自分の可能性を限界まで試したいんだ!」と叫ぶ。
仲間は酔った勢いもあり、「おれたちゃ永遠の子どもだ」とハカセの言動に同調し再び集ってユメを追うことを誓う。
しかし翌朝、正太は妻の妊娠を知り、父親としての責任感に目覚め、昨晩のことも忘れ過去になく張り切って出勤していく。
それを見たオバQは「正ちゃんに子どもがね……。と、いうことは……正ちゃんはもう子どもじゃないってことだな……。」とひとりごち、オバケの世界に帰っていく。
(要約筆者)

劇画・オバQを見て号泣したでござるの巻 - 世界はサカサマ!

 

ユメというポジティブな対象と、他者との相互理解と自己愛というナイーブな対象の差こそあれ、それまで描いてきたものを否定も肯定もせずに成熟を経てその対象の終わりを告げるという側面で、この劇画オバQがシン・エヴァンゲリオンに非常に通じるところのある作品であることがわかる。

この漫画で藤子F先生が、ユメの消滅を単なる悲観ではなく、大人に成長する過程のイニシエーションとしてそれを描いたのと全く同じように、庵野監督は必要な儀式としてシンジ達の内面的な過去を精算する。 「おめでとう」でも「気持ち悪い」でもなく、対話を通じて互いを受容した結果の成熟によって。

シンエヴァのメッセージを一言で表すなら「生に責任を持つ」というものになるだろう。これは旧作に対する挑戦でもなければ、「大人になれ」という上から目線の説教でもない。
子どもを授かって若き日のユメから卒業したオバQの正太と同様に、綾波レイやミサト、他者の命と意志を受け継いでエヴァンゲリオンに決別するシンジ。
かつてのテーマであった自己愛と他者理解の軋轢というものに対して本作は断罪も超克もなさず、ただ時間をかけた対話を経てそれを受け入れたうえで、過去を清算し、責任を引き受け、別れを告げる。
良い悪いではなく、生き続けるとはそういうものなのだ。

 

蛇足だが、シンエヴァのあとに旧劇を再見すると、エヴァンゲリオンが既に役割を終えてしまっていた作品であることを否応なく感じる。
かつて自分のために作られた物語だと錯覚するほどに自分の心の閉塞感と1対1で対話させたそのキャラクター達のこころの表出は、現代では即座に類型化の対象となってしまう。
ソーシャルメディアで色々な人々の内面の吐露が近接的に構造化されて目に見えるようになり、 ナイーブな心象表現はクラスターに集って半ばジョークのように扱われるものとなった。
精神科医の熊代亨先生が著書「健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて」で 述べるように、現代社会は全ての人とサービスの健全性を前提とするよう構成され、誰もがそのハイクオリティな社会への適応を要請される。そこからこぼれ落ちる人間に対して、現代精神医療はこころの問題ではなく、振る舞いや行動にフィーチャーする。
現代において、シンジやアスカだけではなく、エヴァの流れを受けるカルト的アニメキャラクター達の孤独に向き合うものは存在しない。トレンディではないのだ。
仮に1997年当時にタイムスリップしたとして、旧劇の視聴者やあるいはキャラクター達がこの映画によって救われるかといわれるとそうではないかもしれない。
ただ、我々は不可逆な今を生き続けている。

庵野監督の意識やそれをめぐるファンの作品への愛憎に関係なく、エヴァは既に終わっていた。終わっていなければならなかった。
その意味でシン・エヴァンゲリオンは「必要な映画」であり、その重い責務を庵野監督は見事にこなして見せた。
ありがとうございました。