フライング・オクラ・フライ

アメリカ南部ものが好きな道民

札幌に移住した

最近、高校以来およそ9年ぶりに札幌に移住した。

9年。長い年月。おれはまだ若いんだろうか?「若さ」って9年以上も続くものなのか?

仕事がフリーロケーション、かつ東京オフィスへの交通費は出してくれるので、狭い部屋に高い金出して住み続ける意味が無くなり、子育てを考えても狂気的な競争の煽りに流されない自信がなかった。

いざ移ってみると、特別何が、というのは難しいが、やはり生活の感覚が全然違う。
外が寒いのも室内が暖かいのも若年男性が少ないのも人の歩くのが早いのも意外と野菜が高いのも、最初は新鮮だったがすぐ慣れた。しかしそういう差異が複合した結果なのか、普段の気持ちのモードが内省寄りになった気がして、こうして久しぶりにブログを更新しようという気になったりしている。

偶然的な興味ドリブンで行動して、退屈が来たらそこを起点に方向転換するというランダムウォーク的な行動指針を東京に居るときは自覚して生きていたが、今は退屈ではなしに自分の欲望に向き合えている気がする。偶然ドリブンというには他人の欲望に当てられていただけだったのかもしれない。

札幌の知人は家と車を買い子供をもうけて20代でライフプラン完成という感じのも多く、それはそれでつまらんなとも思うので結局気質が逆張り野郎なだけなのかもしれない。とりあえず、やっていく。

 

シン・エヴァンゲリオン劇場版視聴後感想:終わらなければならなかったエヴァ、あるいは成熟と劇画オバQ

シン・エヴァを見た。

自分はエヴァTVシリーズが公開された翌年の1996年に生まれた、所謂Z世代の端くれなのでエヴァ視聴者としてはおそらく最も若い部類に入る。
中学時代に友達の家にあった貞本版エヴァを読み、そこからTVシリーズ、旧劇、新劇と履修していった。劇場で見た体験としてはQがはじめてだった。

アニメシリーズも旧劇も新劇も、繰り返し見た作品の方が少ないのでエヴァ自体にさほど思い入れがあるかと言われるとそういうわけではないかもしれないが、lainガンダムイデオンと進んだ自分のアニメ趣味の端緒となる程度には大きな存在ではあった。(エヴァから遡及的にカルト的なアニメを消費していくのは自分のようなZ世代周辺の人間にとっておそらく割と一般的な様式であるように思う)

 

映画を見た直後の率直な感想としては、あれだけナイーブな視聴者のアイデンティティを投射されてカルト的なものとして消費されてきたエヴァが、こんなに現代的な文脈で解釈できる茶番的な展開で終わってしまっていいのか?という不安だったが、それでも「いや、それでいいんだよな」、と思わされる強い説得力が同時にあった。

人類補完計画で自己と他者との境界を無くして争いや悩みのない世界を実現するという相変わらずの加速主義的な企みに対し、世界からの疎外なく汗を流す仕事を通じてコミュニティの発展に貢献していく多少理想主義的な第三村が対置される。縁を大事に、とケンスケや村の人々が言う。大人になれ、とアスカが言う。 その第三村で人に相対する自我を取り戻し「大人」になったシンジが再びエヴァに乗って父ゲンドウと対話し、アスカやカヲルと互いの体験の清算を行い、リアルに成長した大人として長い過去に決別する。
過去作と比べてこれらの展開の意義は驚くほど丁寧に、解釈の余地なく説明されながら進む。
あまりに現代的にリアルな価値観が主張される過程ははっきりいって陳腐で茶番だが、それでもまあ、それでいいんだよな、と思うしかない卒業のイニシエーション。

 

映画を見ていて真っ先に連想した漫画がある。藤子F不二夫先生のSF短編「劇画・オバQ」だ。 漫画のプロット要約を以下に記す。

本編から時を経て成長し、リアルな世界のサラリーマンとして社会の歯車となって働く正太は15年ぶりにオバQとかつての仲間と再開する。
かつて色々なユメを持ち、ユメに向かって無鉄砲に突っ走っていた自分たちを振り返り、ユメを失った現在を嘆く。
そんな中、仲間のうちのハカセはひとり社会に自分を曲げずにかつてのユメを追い続け、「なぜユメを消さなきゃいけないんだよ!自分の可能性を限界まで試したいんだ!」と叫ぶ。
仲間は酔った勢いもあり、「おれたちゃ永遠の子どもだ」とハカセの言動に同調し再び集ってユメを追うことを誓う。
しかし翌朝、正太は妻の妊娠を知り、父親としての責任感に目覚め、昨晩のことも忘れ過去になく張り切って出勤していく。
それを見たオバQは「正ちゃんに子どもがね……。と、いうことは……正ちゃんはもう子どもじゃないってことだな……。」とひとりごち、オバケの世界に帰っていく。
(要約筆者)

劇画・オバQを見て号泣したでござるの巻 - 世界はサカサマ!

 

ユメというポジティブな対象と、他者との相互理解と自己愛というナイーブな対象の差こそあれ、それまで描いてきたものを否定も肯定もせずに成熟を経てその対象の終わりを告げるという側面で、この劇画オバQがシン・エヴァンゲリオンに非常に通じるところのある作品であることがわかる。

この漫画で藤子F先生が、ユメの消滅を単なる悲観ではなく、大人に成長する過程のイニシエーションとしてそれを描いたのと全く同じように、庵野監督は必要な儀式としてシンジ達の内面的な過去を精算する。 「おめでとう」でも「気持ち悪い」でもなく、対話を通じて互いを受容した結果の成熟によって。

シンエヴァのメッセージを一言で表すなら「生に責任を持つ」というものになるだろう。これは旧作に対する挑戦でもなければ、「大人になれ」という上から目線の説教でもない。
子どもを授かって若き日のユメから卒業したオバQの正太と同様に、綾波レイやミサト、他者の命と意志を受け継いでエヴァンゲリオンに決別するシンジ。
かつてのテーマであった自己愛と他者理解の軋轢というものに対して本作は断罪も超克もなさず、ただ時間をかけた対話を経てそれを受け入れたうえで、過去を清算し、責任を引き受け、別れを告げる。
良い悪いではなく、生き続けるとはそういうものなのだ。

 

蛇足だが、シンエヴァのあとに旧劇を再見すると、エヴァンゲリオンが既に役割を終えてしまっていた作品であることを否応なく感じる。
かつて自分のために作られた物語だと錯覚するほどに自分の心の閉塞感と1対1で対話させたそのキャラクター達のこころの表出は、現代では即座に類型化の対象となってしまう。
ソーシャルメディアで色々な人々の内面の吐露が近接的に構造化されて目に見えるようになり、 ナイーブな心象表現はクラスターに集って半ばジョークのように扱われるものとなった。
精神科医の熊代亨先生が著書「健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて」で 述べるように、現代社会は全ての人とサービスの健全性を前提とするよう構成され、誰もがそのハイクオリティな社会への適応を要請される。そこからこぼれ落ちる人間に対して、現代精神医療はこころの問題ではなく、振る舞いや行動にフィーチャーする。
現代において、シンジやアスカだけではなく、エヴァの流れを受けるカルト的アニメキャラクター達の孤独に向き合うものは存在しない。トレンディではないのだ。
仮に1997年当時にタイムスリップしたとして、旧劇の視聴者やあるいはキャラクター達がこの映画によって救われるかといわれるとそうではないかもしれない。
ただ、我々は不可逆な今を生き続けている。

庵野監督の意識やそれをめぐるファンの作品への愛憎に関係なく、エヴァは既に終わっていた。終わっていなければならなかった。
その意味でシン・エヴァンゲリオンは「必要な映画」であり、その重い責務を庵野監督は見事にこなして見せた。
ありがとうございました。

ジョージ・キューカー「男装」:キューカーとケイトの超解放的スクリューボール・コメディ

5億点。

キャサリン・ヘップバーンが演じるシルヴィア・スカーレットと魅力的なキャラクター達の珍道中、邂逅、そして追跡劇。

 

1935年、ジョージ・キューカー監督、キャサリン・ヘップバーン主演、ケイリー・グラント助演。原題は "Silvia Scarlet" 。

キャサリン・ヘップバーンケイリー・グラントは1938年「素晴らしき休日(ジョージ・キューカー監督)」、赤ちゃん教育ハワード・ホークス)、1940年「フィラデルフィア物語ジョージ・キューカー)」などの作品(どれも超傑作)で共演するなか、本作が初共演の作品となる。

 

母を亡くした貧しい洋裁店の一人娘シルヴィア・スカーレットが男装し、父とロンドンに逃亡するところから物語は始まる。
軽薄な父は商売道具のレースを密輸し金儲けを企むが、道程で出会った詐欺師・モンクリーに欺かれ密輸は失敗する。
モンクリーの企みで彼とスカーレット親子はタッグを組んで様々な手段で金を儲けようとするが、 シルヴィアの繊細さ・誠実さによって企みがばれていずれも失敗する。
彼らはショーを興行し、その中で冷やかしのブルジョア、リリーとフェーンに出会う。
シルヴィアはフェーンに恋をし、男装を明かすも、彼を愛するリリーによってその恋は阻まれる。
失意に陥ったシルヴィアはさらに父を失い絶望する。
シルヴィアとモンクリーは翌朝ふたりで再出発を試みるが、シルヴィアは海で溺れるリリーを発見し、彼女のためフェーンに再会する。
リリーのもとへ戻ろうとしたシルヴィアとフェーンは、モンクリーがリリー共々逃走したことを知り、フェーンの車に同乗し二人を、フェーンとシルヴィアが互いの本来のパートナーであると盲信しているリリーとモンクリーを追いかける。
列車内に舞台を移し、モンクリー達の所在を突き止めたふたりは別れを告げようとするが、ようやくお互いの気持ちを知り列車を止め外に出る。
覚悟ある解放を叫びフェーンと結ばれるシルヴィアを見守りながらリリーの喚声をやり過ごすモンクリーを描いてエンド。

 

以上が要約だが、お察しの通りプロットに脈絡は無く、それを理由に本作はキューカー作品の中で駄作扱いされることが多い。
実際、シルヴィアが男装を明かす前と後、そして追跡劇が始まる前と後では全く別の映画と言っていいほど展開は跳躍的だ。
一方、この時代に全盛を迎えるスクリューボール・コメディ作品群はその制約や当時の流行から展開が単調になりがちで、ともすれば作品を体験するごとにその予定調和的なストーリーの中で演出や演技の巧緻を愛でるという、ある種倒錯的というか批評家的な内向けのツマンネー観賞に陥ってしまいがちである。
その中で本作はその脈絡のなさ、言い換えれば脱文脈的な予測不可能さによって視聴者は否応なくハプニング的に、キャサリン・ヘップバーンの立ち回り、その雄弁な目と口元の所作、見事な台詞回しと舞台使いを新鮮さを持って体験することになる。
そしてその跳び回る展開の最後にシルヴィアが覚悟ある解放を叫んでフェーンと抱き合い、それを車内から見つめるモンクリーを映して終幕する、名演をエモさで締めるこの説得力で映画体験として5億点以上の価値がある。

「すべてのニュースは賞味期限切れである 大忘年会」 ポジショニングと政治性について

速水健朗おぐらりゅうじ・武田砂鉄「すべてのニュースは賞味期限切れである 大忘年会」を現地視聴。

2年前くらいから毎年見ているけど、今年は同連載自体がほとんどなかったので特に振り返りとかはなく、結局3人の各持ち込みネタに基づくフリートーク

 

トピックはcakes騒動に始まり、お笑い第7世代のネオリベに見せかけたポジショニング、星野源・銀杏峯田の一歩引いた政治性、LDHのパブリック化とマスキュリズム回帰、エイベックス→折口雅博幻冬舎界隈の繋がりと速水さんの関係性など。

各トピックはだいたい例年通りでトピック自体に繋がりはないのだけど、今回面白かったのがトーク全体を「ポジショニングとその政治性」的なものが通底していたこと。 

話者3人、特に速水さんの社会的立ち位置がメディア中枢に近付き、またマスへの露出が増えていくにつれて取るアクションの帯びる政治性が不可逆な、クリティカルなものになっていく。そしてマスはそのアクションの文脈なんて見ず、各がうける印象と連想のみで客体をカテゴライズする結果、ソーシャルネットでの自分のカテゴリ・立ち位置が自身の意図したもの、本来のオピニオンから乖離したものになってしまう。

幻冬舎界隈のようなソーシャルハッカー(?)がまさに日常的なソーシャルネットを囲い込みにきている中で、命取りになりかねないそうした乖離を防ぐために、発信者としてのポジショニングをどう取っていけばいいのか?という課題を提出してトークは終わる。

 

このトークを聞いてまず思い浮かべたのが、やまもといちろうさんのポジショニングについてだった。

元切り込み隊長・いっちょ噛み野郎・総会屋2.0として今やネットコンテンツとしてはオワコン扱いされて久しい彼だが、webライターとしてはヤフー個人や文春オンラインで発信を続け、その多くが媒体内ランキングやはてブホッテントリ入りを果たしており、ソーシャルネットでの存在感は衰えていない。

株式・不動産投資、政治経済等社会科学の知見の深さと引用に耐えるデータドリブンな記事づくりによる書き手としての希少性がそのポジションを支えているのは確かだが、敵味方問わず相手を馬鹿と罵って止まない彼がソーシャルネットで生き長らえているそのポジショニングは正直に言って異様だ。

やまもといちろうさんはファンドマネージャー藤野英人さんや企業家の青山浩さんなど商業的なビッグプレーヤーと親交が深いが、藤野さんも青山さんもTwitter等で活動していない点を見ると、ソーシャルのポジショニングにおいてソーシャルネットでの関係性というのは無意味なことなのかもしれない。これは考えてみると当たり前のことだが、巷のインフルエンサーがその関係性の網を張り巡らせてそのポジションを確保している現状のネットを見ると、やまもといちろうさんのソーシャルネットでのあり方というのはカウンターとして注目に値するものだと感じる。

 

人形町・福そば、まつむらのパン、西北拉麺の拌麺

昼過ぎに水天宮−人形町を散策。

福そばの天玉そば。
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普段の笠置そばのフカフカした麺と甘めのつゆもいいけど、これは滑らかな麺とキレのあるつゆで潔い感じ。春菊天と温玉も含めてレベルが高い。

サンドイッチパーラーまつむらのイートインで休憩。


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のりとチーズのサンドイッチとかぼちゃプリンパン。

サンドイッチは極めて普通、かぼちゃプリンは風味豊かで美味しかった。サンドイッチパーラーだからとサンドイッチを頼んだものの、たぶん生の食パンが基本的に好きじゃない。

エクセルシオールでピンチョンの「V.」をダラダラ読んで時間を潰したあと、水天宮前の西北拉麺に向かう。


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看板メニューの牛肉拌麺とセットのスープ。

拌麺は以前高田馬場の沙県小吃(サケンシャオツー)で食べたオヤツ感覚のものを想像していたけど、こちらはエスニック感が強く、ビヨンビヨンの麺を油と甘辛い牛肉とタレ、パクチーと合わせて食べる。麺の感じが新鮮で良い。ラーメンでも食べてみたいが、店内には麻辣湯を頼んでる人も多く、そちらも気になる……。

年末の水天宮付近は夜になると出店が多く、正月飾りや鏡餅、おせちの材料なんかを売っていて賑やかだった。

 

浅草「亀十」どらやき

浅草文化観光センターに靴デザイナーの三澤則行さんの作品展を見に行ったついでに、亀十で有名らしいどら焼きを初購入。

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食べたのは買ってからすこし時間が経ってからだったけど、それでも生地がほわほわして口どけがよくて甘さにコクがあって、かなり美味しかった。

白あん黒あんを一つずつ買ったが白あんの方が生地の良さが引き立つ感じがする。言い方を変えれば黒あんのほうがどら焼きとしてまとまっていてバクバク食べてしまう。(黒あんの写真がないのはそのせいだ)

 

展示会で初めて見た三澤さんの靴は思ったよりも突飛な印象だったけど、見るうちに革や靴自体ののエロティックさが色々な形に昇華されているのがわかり新鮮だった。写真の「Music」はバイオリンにインスパイアされた作品で、金皮革のタンまわりの優雅さとソールの曲線のエロさが良い。

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ドトールの大豆ミート全粒粉サンド、三品輝起「雑貨の終わり」、北欧風ミートボール

13時に起きた。

相方が昨晩の電話の中で二子玉川に日用品の買い出しに行くと言っていたので付き合おうと思っていたが、微妙な時間になってしまった。ウダウダしてシャワーを浴びた後で本を持ってドトールに行く。

大豆ミートの全粒粉サンドとブレンドM。(こう書くとコーヒーじゃなくて服のサイズみたいだ)


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ぷるんとした食感の大豆パティに甘めのきんぴらと素朴なハード系全粒粉バンズがどこか給食っぽい印象を与えるが、そこにケチャップとカラシが意外と合い、最低限のパンチはあって悪くない。

 

半分くらいまで読み進めていた三品輝起「雑貨の終わり」を読み切る。西荻窪の有名雑貨屋「Fall」の店主が、彼の店に並ぶような雑貨あるいはパンブームのような社会事象についてそれ自身の文脈を喪失し、身の回りのあらゆるものが「ディズニーランド的」消費システムの部品と化していく様を(雑貨屋という作者のポジションを含めて)冷笑的に叙述している。

このディズニーランドと消費文化の下りに既視感があると思ったら、速水健朗「都市と消費とディズニーの夢」のテーマそのままだった。というか三品氏も参照してるんじゃないかと思う。コクヨ学習センターのポッドキャストhttps://link.tospotify.com/ZxGK3HHGMbb)でも同氏著作の「フード左翼とフード右翼」を援用してたし。

「都市と消費とディズニーの夢」を改めて読み、ディズニーランドそれ自体が、20世紀アメリカの進歩主義の内省から「ダウンタウンの再生」として創造されたショッピングモールと根を同じくするものであることを鑑みると、現代の新自由主義な都市の発展の中で暮らしの場そのものが万華鏡的な消費システムとなる過程は自然なことにも思える。それは都市化と人の交流のバランスを探り探りで構築していった結果であり、言い方を変えれば我々が選んだものなのだ。

 

寒くなる前に帰り、ルバーブとトマトのケチャップが残り少ないので使い切るために肉団子をつくる。

北欧風ミートボールのレシピにはタネの中にマッシュポテトをいれるものがあり、やってみると焼くときに肉汁が出ないし食感もふわふわして良いものだった。ただケチャップよりベシャメルソースとかでシチューの具にするほうがいいかもしれない。というか昼と同じようなもの食べちゃったな……

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